★エッセ-

■「糸井邦夫画集によせて……」

「ノスタルジアと落莫」----- 豊穣な物語を読み解く  有賀 忍

糸井邦夫の仕事を見続けて30有余年。東京都美術館の現代童画展や新制作展で、また
アートミュージアム・ギンザ等の個展会場で、彼の感受性と幻想力が傑出した“情景画”
(彼は自作をこう呼ぶ)の数々を目にしてきた。彼は日常の風景や時間を切り取り洗い直し
主情的に構成する。構成は実に巧み。ぼくは作品の前で幾度となくその構成の妙に魅了され
感慨を覚え、頷いたものだった。

 描かれる陰翳に富んだ世界は夢幻的であり色濃い情緒、殊に漂う寂寥感は見る者をある
種の懐かしさで包み込む。絵は見る側の想像力によっても発酵するものだが、彼の作品に
は発酵を促す方途が仕組まれているかのように思える。読み解く楽しさを与える絵なのだ。

印象に残っている作品を幾つか……。「愛の日」(現代童画大賞受賞作1984)は、
抱きあう男と女を、巨岩に波濤が砕け散る風景の中に描いた150号の力作。抱擁の強さ
が愛を表し、風に吹き飛ばされフェンスにからむリボンと、無機的に描かれたそっぽを向
いた黒犬が不安を物語っていた。添景の人物には孤絶感も。主題は愛の絆と儚さ(無常観)
だろう。断崖の赤、波しぶきの白に対する海の深いマリンブルーが美しかった。その色を
“憂愁色”
@と名づける糸井は相当のロマンチストである。以降、「島の港」(1988)
他、多くの作品に同色が用いられるようになった。

 「港のホテル」「電車通り」「雪の日の駅」「遊園地の夜」はいずれも1989年の作品。
同年は佳作が目白押しだ。大賞受賞以来の充実振りが窺がえる。ぼくの好きな「
S理容店」
(1997)は展覧会場で、殆どの絵の前を素通りしたぼくが見入った、数少ない
作品の一つだ。私事で恐縮だが、ぼくの絵のテーマの一つが“懐郷”。懐郷と言っても、
実際の風景を懐かしむのではなく、いわば心の原風景、心象を描くものだが、「
S理容店」
にも、その悲涼感を伴う懐かしさを感じた。日常に潜む異空間、虚構を必然ならしめる創
造力を目の当たりにし、ぼくは彼の想像的意識の高さを評価したのだった。他に「トワ エ
モア」(1998)、「雪の町」(1999)も印象深く記憶の底に残っている。2000
年代に入っては「山の町」(2001)、「鳥の風景」(2002)。近年では「交差点
の街」(2005)、それに「飛び込みの日」(2006)。いずれも大作で圧巻だ。

絵の前を素通りと書いたが、それらの絵の多くは、その人の本然の姿の発露ではなく、
真似事に過ぎなかったり、技量はともかく明確な主題が希薄、よって精神性も浅薄であっ
たからだ。“止むに止まれぬ表現欲求“の成せる業からは遠い絵、しかも描く側の”場の
安閑“を感じさせる甘い作品に辟易としていたからでもあった。糸井の絵に対する姿勢は
厳しく、一日の時間も殆どが絵に費やされる。生きること、そのものが絵のようであり、
絵に魂の彷徨が見え隠れするのも宣なるかな。30年見ていてそう思った。生命の内部か
ら突き上げる力で描いている芸術家だなと。

糸井は現代童画会の重職にある。組織運営など覚束ないぼくにしてみれば、彼は不思議だ。
手際よく事を進めるマネジメント能力を持っているのだから。しかしながら、達弁を
振るうことこそあれ、絵そのものを語ることは少ない。いや断然寡黙だ。ピエール・アス
ティエ著『画家は語る』(1964)
Aは20世紀の巨匠50人にインタビュー+筆跡鑑定
した興味深いものだが、インタビューといっても絵については話すことを好まない者もいる。
その一人、レオナール・フジタは『私は絵画について語るのは好きではない。なぜなら、
語るのはいつも絵画の方だから。私の考えを語るにしても、我々の人生はあまりに短すぎる。
私の死後、私の絵がそれを語るだろう』と書いている。糸井にしても、絵に語らせる事がすべ
てなのだろう。彼は黙然ではあるが、作品はドラマチックで饒舌。この時代を生きる実感、認
識を思索のもとに描き出している。それがぼくの意識下の地層まで届き、心地良く揺さぶるの
だ。

『画家は語る』からもう一人、シャガールの言葉Bを引用しよう。シャガールは「絵画に
おいて、
観念(イデー)はどんな役割をしておりますか」の問いかけに、こう答えている。
『絵画をつくるのは
観念(イデー)ではなくて、生命……この流動する生命ですよ。どんな顔も、
どんな出来事も、戦争も、革命も、歓喜も,死者たちも、画面をみたしているのです……。
絵画では、ごまかしは不可能なんです。それは愛におけるのと同じです。真情を吐露しなけ
ればならないのです。』糸井の口癖、時に個展のサブタイトルにも現れる“あるがまま”も
シャガールの言葉“真情の吐露”の換喩であろう。

300点を超える糸井の作品には、「遠い日」「風の日」「海を見た日」「花匂う日」など、
“日”のつく作品が40タイトルもある。他者には日常の瑣事でも、彼の心の琴線に触れた
“大切な情景”の記憶を、時間によって風化させまじと留めた日記を思い起こさせる。
ある特定の光景を描いたものではないのは無論だ。見えざるものを可視的に……、
心情の表出だからこそ彼の“情景画”は、ぼくの心に迫り響くのだろう。糸井の感覚がどう
研ぎ澄まされ、純度を増して行くのか、或いは何処まで熟して行くのか、期待して見守りたい。
絵を見て、当人と会ってみたい、語りを聞いてみたいと感じさせる、数少ない画家だから。

ありが しのぶ(板絵画家・絵本作家・相模女子大学学芸学部教授)



@「現代童画大賞展リーフレット」 1996 現代童画会
A「画家は語る」ルイ・ゴルデーヌ、ピエール・アスティエ著 藤田尊潮訳 2006 八坂書房
B「美術手帳」9月号「画家は語る」仏版 シャガールは語る 辻邦生訳 1966 美術出版社

(Jan.09.2009)






■カレー風味の燻製  ……再録…… (『カレーライス』主婦の友社・JOY COOKING SERIES 1978年刊)

 ぼくは 食べ物に関し好き嫌いはない。いつでも出された料理はすべてたいらげることにしている。
ただ、昼間食べた料理をその晩、家の食卓で再び見ると、たとえそれが手のこんだものであっても幻滅を
感じる。しかしカレーライスは違う。家のカレーが格別うまいというわけではないが、カレーの匂いが鼻腔を
くすぐり、思わず食べさせられてしまうのだ。
 カレーはドーソンのパウダーを使っている。チャツネや牛乳も加えて作るが、実はほとんどジャガイモ以外見当たらない。
いわゆるイモカレーである。
レストランのフォンドボウ(FONDS DE VEAU)仕込みのとび色のカレーも結構であるが、黄色い(安っぽい)カレーの方が
ぼくの味覚には合うのだ。
 何故にドーソンのパウダーかといえば、それは自分でブレンドしたものよりはるかに香味が優れていたから。かつて、
食品雑誌の仕事をしていた頃、凝り性のぼくはカレー粉を調合して作ってみたことがあった。調合といっても十二〜三種類の
香辛料をすり鉢で混ぜ合わせるだけ。ブレンドしたての香りは負けないとはりきってはみたものの、味の複雑さでは
とても及ばず観念したのである。
 その頃たまたま友人が土産にドーソンのカレーペーストを持ってきた。その一ビンが空になる頃にはぼくはもうすっかりその
かれーの味に慣れてしまっていた。
 食料品店には”甘口””辛口”のみならず微妙にその度合いが異なるカレーが幾種類も並ぶ昨今ではあるが、頑固者のぼくは
未だに、カレーはこれだときめてかかっている。
 さてそのカレーパウダーを、ぼくはアトリエにも置いている。といっても、仕事場でカレーを作る暇はない。一日中描き詰めで
店屋物にも飽きてしまうと、ぼくはフランスパンをかじり、特製の燻製を食べる。その燻製こそ、わがアトリエのスモーキング
キャニスター(燻製器)で作るカレー風味の逸品なのである。
 先ずキャニスターにヒッコリーの鋸屑を敷き、それから金網の上に魚をのせ、上ブタで密封して燻すのである。
材料はあじ、にしん、にじます、帆立貝、やりいか、鶏肉……等などに塩、胡椒、そしてカレーパウダーをたっぷりまぶす。
時には、銀鮭の子の腹に、ディジョン産のシードマスタードを詰めたり、牛肉に醤油やガーリックパウダーをかけたりもするが、
カレー風味の燻製はやはり、美味さが違う。
 20センチ位の魚やあまり厚くない肉なら15分程で燻されるが、燻製器を火にかけたまま1,2時間忘れていたりすることがある。
煙が出ないので気が付かないのだがそれはそれでひっこりーの匂いをたっぷり吸い込んだ香り高く日持ちのよい燻製が
できあがっている。
 この燻製の他、アトリエでのメニューに欠かせないものにカレーチーズがある。これも作り方は簡単。チーズを少量の
生クリームとともに鍋にとり火にかけて練る。それに卵黄とカレーパウダーを混ぜ合わせ冷まし、固まれば出来上がりである。
(アルミの製氷皿が便利)これは酒の肴にもなるので家でも作り置きしているが、酒客が喜ぶ一品である。(イラストレーター)

  当時(1978)の職種は”イラストレーター”。この頃より、童画、子供の絵本関係の仕事が多くなっていく。それにしても、
  若さゆえか、カレーについての一文、重すぎるよ!何事にも熱かったんだろうなあ……。その頃の手作り絵本
  (シルク印刷、手彩  色、手製本)が何冊も残っているが,ヤル気十分!わき目も振らず進む”気”が溢れている。
  今のぼくはどうだ?慨歎自戒。

(Jan.22.2008)




■『狩人と犬、最後の旅』……興行収入では計れない、”本物たち”の映画

 <狩人と犬、最後の旅>パンフ

 今年上期の映画興行収入のベスト5の順位は、邦画では (1)LIMIT OF LOVE海猿 (2)THE
有頂天ホテル  (3)男たちの大和/YAMATO (4)デスノート (5)ドラえもん のび太の恐竜2006。
洋画では (1)はりー・ポッターと炎のゴブレット (2)ダ・ヴィンチ・コード (3)ナルニア国物語/第一章
ライオンと魔女 (4)Mr.&Mrs.スミス (5)フライトプラン だそうだ。

 ぼくがこの夏、久しぶりに感動した映画『狩人と犬、最後の旅』は、ランキングにはおそらく載るまい。
ヒットしそうな作品の大規模(全国250〜300スクリーン)での上映とは違い、小さな映画館にしか
掛からなかったから。(東京でもテアトルタイムズスクエアと銀座テアトルシネマの2館のみ)
 北極圏で犬ゾリを操り狩猟をしてきた実在の老狩人ノーマン・ウインターと犬との物語。フランスの
冒険家で写真家のニコラス・ヴァニエがアラスカを犬ゾリで横断している時ノーマン・ウインターと
出会い実体験を再現。真実だから凄みがある。もちろん主役は”最後の狩人”ノーマン・ウインター
本人と犬たち。いや人の住まぬマイナス40度にもなるロッキー山脈の厳しい自然も主役だ。
 ノーマン・ウインターは犬ゾリで猟場を廻り罠を仕掛ける。が、頼りにしているリーダー犬のナヌーク
は、買出しに出た町で車に轢かれて死んでしまう。相棒を失い途方に暮れるノーマン・ウインターに
雑貨屋の主人がシベリアン・ハスキーの子犬アパッシュを渡す。アパッシュはレース用に育てられて
おり、犬ゾリの仲間達と馴染めず足手まといになるばかり。ノーマン・ウインターはアパッシュをダメ犬
と決めつけたが、ネイティブアメリカンの奥さんが根気よく教える。ところがある日、犬ゾリが転倒、
他の犬が走り去る中、アパッシュだけがかけ戻り、氷の湖でもがくノーマン・ウインターを助けたのだ。
アパッシュに命を救われ、山を下りようと考えていたノーマン・ウインターは、再び狩人として
カナディアンロッキーで生きて行く決心をする。
 厳しい崖の底をアリの隊列のように走る犬ゾリ、先が見えない広大な氷の湖、オーロラ、動物たちの
群れ……自然の美しさには目が眩み胸が熱くなった。息つく暇も無い感動的シーンの連続。生きる力
が湧いて来るような荘厳な自然賛歌、人間賛歌……いえ、現代人が失った素朴な生き方がぼくの胸
を締め付けたのだ。映画パンフの惹句”生きるとは、こういうことだ”……言いえて妙なり。
人間と犬”本物たち”の映画だ。





■トロースドルフ絵本美術館展「赤ずきんと名作絵本の原画たち」を観る  (JAN.15 2006)

  

  ・「トロースドルフ絵本美術館展」図録   <アトリエ便りにリンク> 

 「赤ずきんコレクション」を観に板橋区立美術館に行く。ケルン郊外にあるトロースドルフ絵本美術館の収蔵物の中から、
童話「赤ずきん」に関する絵本、原画、資料約350点を本邦初公開。赤ずきんの200年、240冊の絵本。その表現の
多様さに驚き、それをよくも収集したものだと感心。それも個人のコレクションが主体だから恐れ入る。

 美術館に入ってびっくり!そして思わずにっこり!入場券販売をはじめ、館内巡視、売店にいたるまで、すべての係員が
女性は頭に赤いずきんを着けた赤ずきん姿。男性は黒い大きな耳を着けたオオカミのいでたちで働いているではないか。
他の美術館では見られない愉しそうな笑顔。寒さに背をかがめて歩いて来たぼくの、こわばっていた顔もゆるんだ。
 シャルル・ペローの赤ずきん(赤ずきんはオオカミのベッドに入り食べられてしまう恐ろしい結末……若い女性への教訓話)と、
グリムの赤ずきん(猟師がオオカミの腹を裂き赤ずきんを助け出すハッピエンド)との違いも、分かりやすく解説してあったが、
何より小さな鑑賞者が興味深く読み進めるよう設置したイラストパネルには、企画者の子供への心遣いを感じた。もちろんそれは
大人にも十分楽しめるものであった。

 展示物は絵本や原画は質、量とも充実していたが、赤ずきんをモチーフにしたイラストが付いたがらくた(失礼)、例えば
チョコレート型、ジクソーパズル、ブロックパアズル、着せ替え人形、パペット、菓子の箱等も面白かった。

 中のページをくり抜いて秘密の箱を隠し持つ銅版画入りおとぎ話の本もあり、思わずウフ!笑ってしまった。ぼくも中学高校
時代、分厚くかっこ良い洋書を古本屋で探し、中をくり抜いて”シークレットブック”を作ったことがあったからだ。
 思い出と言えば、ぼくには小学校に上がる前までの写真は一枚しかないけれど、その一枚が黒いオーバーを着て、頭に紙で
作ったオオカミの耳を乗せているもの。そう、赤ずきんのオオカミ。幼稚園の劇を写した小さな写真だ。「たべちゃうぞー!」の、
たった一言のセリフとともに、オオカミを演じた記憶は鮮明。セピアに変色しヒビ割れた写真と違い、60年近くたった今でも思いでは
色褪せない。

 この展覧会で「いいなあ……、すてきだなあ……。」と思ったのは、絵入り封筒十数通の展示。絵本作家のビネッテ・シュレー
ダーが、トロースドルフ美術館の基礎となった赤ずきんのコレクター、ヴァルトマン夫人に送ったもの。そのすべてに、赤ずきんや
オオカミのイラストがインクや水彩でさりげなく描かれている。ほとんどが赤や黒だけのシンプルな絵。切手とのレイアウトも美しい。
ヴァルトマン夫人がこの郵便物もコレクションに加えたのも頷ける。ぼくはガラスケースに鼻をくっつけ見入ってしまった。ビネッテ・
シュレーダーはグリムの「かえるの王様」などを幻想的に描いているけれど、絵本よりこの封筒を飾るカットに魅力を感じた。ぼくも
たまに封筒の余白にギッシリ落書きするけれど……、「もっともっと、遊び心で自由に落書きしよう……。」意を強くしたのだった。
 この”郵便物作品”の絵葉書は完売。人気がある証左だ。




■絵本講座 初めの1冊 ブルノ ムナーリ『たんじょうびのプレゼント』

■BRUNO MUNARI
 『BIRTHDAY PRESENT』


  ブルノ ムナーリ 1907年イタリア・ミラノ生
まれ。 インダストリアルデザイナー、イラストレ
ーター、彫刻家、ブックデザイナー、詩人。絵本に
『霧の中のサーカス』『暗い夜に』『どなたですか』
等多数。
 日本語版『誕生日のプレゼント』は1982年、
大日本絵画より出版された。
MUNARIの絵本は「絵本の小径」でも紹介

 大学で秋から絵本の講座を持つことになった。オリエンテーションで学生に見せる絵本を
何冊か選び出したが、これが大変。迷ったり欲ばったりしたせいだけではない。絵本は
ダンボール箱に詰め、埼玉県鳩山にあるアトリエ脇の小屋に積んであるが、この夏の猛暑、
生い茂った草木に囲まれた小屋はもう釜中同然で息もできない。たまらず重い箱を外に
引きずりだしたが、今度はヤブ蚊の集中攻撃。蚊取り線香も効無く刺され放題。腕も足も
腫れ上がった。地元の人がおしゃもじ山と呼ぶ小高い丘から時折吹く風も熱風。全身
汗みどろで体、掻き掻きの作業だった。それでも、絵本のラインナップがそろい、袋に詰める
頃には、蚊に刺された痒みも忘れていた。
 絵本の面白さは場面の連続性,継起性にある。学生に分かって貰いたくて選んだのが、
ブルノ・ムナーリの一冊。ムナーリはイタリアのデザイナーだが、ユニークな絵本も数々制作
している。1945年に出版された『たんじょうびのプレゼント』は初期の傑作。仕掛けの
アイディアをいかした軽妙洒脱な絵本だ。
 ジョバンニの父さんはトラックの運転手。今日は息子の3歳の誕生日。プレゼントを買って
帰る途中、トラックが故障してしまった。家までまだ10キロある。乗用車に乗り換えるが、
9キロのところでこれも故障。オートバイに乗り換えるが、8キロのところでパンク。さあ
どうしよう。父さんは自転車に乗り換えるが、7キロのところでチェーンが壊れた。スクーターに
乗り換えるが、6キロのところで車軸が折れた。ローラースケートで走ったが、5キロのところで
車輪がはずれた。あと4キロ。歩いていくしかない。3キロのところで靴ひもが切れ、2キロの
ところで靴はすりきれてボロボロ。父さんは裸足になった。1キロ過ぎてやっと家が
見えてくる。夕日が沈みかけている。玄関のベルを鳴らすと、息子のジョバンニが両手を
上げて立っている。「おかえりなさい。たんじょうびのプレゼント、はやくはやく」。
 前半はページのサイズが段々小さくなっていき、後半はめくるごとに再び大きくなっていく。
実に巧妙。ページをめくる楽しさ、ワクワク感……これぞ絵本。ジョバンニにプレゼントを届け
たい父さんの一途な気持ちがストレートに伝わってくる。滑稽でジーンとする上、最後に
プレゼントの箱を開けて見られるのだから、この絵本、面白さのおまけまでついているようだ。
 えほんの講座には演習があり、学生は実際に絵本を制作することになる。ムナーリの
絵本はアイディア、イラストの造形性、時間の経過の確かさ、展開の妙、シンプルなテキスト
など大いに参考になると思う。そして学生に願いたいのは、やがてお母さんになった時、
『たんじょうびのプレゼント』のような”愛情のメッセージ”が籠められた絵本を、自分の目で
選んで子供に見せて上げてほしいということ。そのための目を講座で養ってもらえたらと思う。
 袋を抱え小屋を出ると夕闇が迫っていた。おしゃもじ山の草薮のそこここに仄白いものが
見える。近寄って懐中電灯を照らせば、何とカラスウリの花。朝には萎む一夜花だ。白い星型の
花弁の周りに広がる繊細な糸は優美なレース編みのよう。晩秋、梢で風に揺れる赤や橙色の
カラスウリの実からは想像できない清麗さ。あえかな花が夜の帳に包まれて、ひっそり咲き始め
たところだった。                                     (Aug,2004)




■キジの住処---自然が壊され里山の風景が変わる---

 アトリエの隣の小さな雑木林。クヌギやコナラ、シラカシの木がチェーンソーで次々切り倒された。ユンボが
うなりごえをあげ程なく林は造成地となった。「鳥の巣見なかった?」作業員に聞くと、「何のこと?」と素っ気ない。
この林はそれまでキジの住処だったのだ。
 キジは雑木林の茂みから現れ、木漏れ日の小径を横切りアトリエの畑に遊びに来た。いつもオスメス仲良く連れ
添って……。畑はクリムソンクローバーやカモミールが真っ盛り。オスの顔はクリムソンクローバーの花穂より赤い。
首から胸にかけての緑色や紫色はクローバーの葉にはない金属光沢があってじつに美しい。メスは茶褐色で地味
だが、カモミールの花を揺らして歩く姿が愛らしい。
 ぼくはオスをクリムソン、メスをカモミールと名付けた。胸を突き出すような動作は悠然としていて威厳さえ感じる。
さすがは日本の国鳥だ。
 ぼくはクリムソンに5メートル位まで近づいたことがあったが、身じろぎもせずじっとしていた。人間を恐れない
のではない。茂みにいたカモミールを守っていたのだ。ごくが離れると、「もう安心」とばかりに、「ケーン」一鳴きし、
カモミールと共に飛び立った。
 キジが畑で餌を啄み、雑木林に帰るまでを目で追う楽しみ、眼福もそれまで……。自然が壊された後、キジを
見かけることはなくなった。人間が強引に住処を奪ったのだ。罪悪感に気持ちが沈んだ。
 ところがある日、「ケーン」、聞き覚えのある鳴き声!黄昏の空に目をやればキジが二羽、アトリエの前にある
おしゃもじ山と呼ばれる丘の竹薮に飛び込んで行くではないか。クローバーとカモミールに違いない。住処をあの
竹薮に求めたのか。
 ぼくは少しほっとした。

                                         (初出「健康」2004年夏号)




■聖書絵本『ほしのよる』をつくって     
               月刊「健康」〔共同通信社〕 2004年1月号掲載


■聖書絵本『ほしのよる』をつくって

 完成まで半年以上かかった板絵による
 聖書絵本。主人公マリアとヨセフの感情を
 どう表現してよいか分からず悩んだ。
 板絵で聖書絵本を制作した。板絵はシナベニアを彫りその上に描く技法。いわば版画の
版木に彩色し、それを作品とするようなもの。取りかかったのは春。アトリエから見える、
おしゃもじ山と呼ばれる小高い丘が枯木色から芽吹きの緑に変わる頃だった。40cm×
80センチの板を12枚彫る作業は決して楽ではないけれど、その前に絵本の構成を考える
段階で頓挫した。いままで自由に制作してきた創作絵本とは何かが違う……。聖書を読み、
絵本のネーム〔文章〕を考えるにつけ、頭を悩ませたのは”感情表現”の問題であった。
 ぼくは絵本を制作するとき、登場する者が人であれ動物であれ感情移入して物語を書き
絵を描く。ところが聖書絵本では、主人公マリアとヨセフの感情をどう表現してよいか分からず
悩んだ。今回制作する絵本は、受胎告知からイエスの誕生、羊飼いの祝福、東方の三博士の
祝福までを描く。〔マタイによる福音書、ルカによる福音書を参考〕。マリアの処女懐胎はともかく、
婚約者ヨセフの心情を察すると複雑。マリアを抱くことがなかったヨセフが哀れにさえ思え筆が
止まってしまった。マリアは天使ガブリエルから「神の子をみごもった」ことを告げられるが、
大工のヨセフは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」との天の声を夢で聞いたにすぎない。
聖書ではヨセフはマリアとひそかに縁を切ろうと決心したともあるが、結果的には受け入れ
ベツレヘムへと旅だっていく。
 登場人物の気持ちを度外視して絵本は作れない。ぼくは思いを巡らせては文章をl書き直し、
ラフスケッチを描き続けた。そして決めた。マリアもヨセフも特別の人と考えず、ごく普通の夫婦
としてとらえようと。わが子の誕生を待つ、祈りにも似た気持ち、誕生の喜びを素直に絵本に
しようと。聖書の中ではマリアに比べ影が薄いヨセフの存在感も強調、マリアの頼れる夫として
とらえることにした。
 暑かったなつの間、ぼくはアトリエに籠っていた。赤ちゃんの誕生を神に感謝するヨセフと
マリアを描くことに没頭。生まれてくるのが、神の子イエスであろうとなかろうと、子を授かる
ことは普遍の幸せなのだとの考えが制作をスムーズにした。
 子どもは宝物。生まれるべくして生まれるもの。二親から望まれて生まれるもの。そういう
ものであってほしい。昨今、"出来ちゃった結婚”なる言葉が当たり前のように使われるが、
ぼくはこの言葉が嫌いだ。めくじら立てることもないかもしれないが、”あーあ、出来ちゃった”
"仕方ない”の意味合いが感じられるし、この言葉を発する人に些かの含羞も感じられないから
嫌なのだ。子どもを心から欲しいと願う気持ちとは遥かに隔たるこの言葉、少なくとも子どもには
聞かせたくない。
 聖書絵本『ほしのよる』の板絵原画は完成まで半年以上かかった。校正刷りは胸の高鳴るのを
抑え、庭に出て自然光の下で見た。ヨセフがロバにマリアを乗せナザレから旅立つ場面や、
天使の楽隊が羊飼いに救い主の誕生を知らせる場面、それに一番描きたかったベツレヘムの
幸せ溢れる馬小屋の情景……。気になっていた刷り色は初校にしては上々。安堵した。
 庭の片隅のスイカズラの蔓にカラスウリが絡みつき、艶やかな橙色の実が揺れている。ヌルデ
やナナカマドや山モミジもとりどりに色づき夕日に映えている。秋が深まっていた。



■救出隊員は気高い勇者 October,2004




■救出隊員は気高い勇者
新潟中越地震レスキュー隊の”クジマ”たち
 いつ崩落するとも知れぬ崖崩れの急斜面。10メートル下は信濃川。岩が転がればおしまい…
…。死に物狂いの救出作業。ハイパーレスキュー隊員の動きに、ぼくは息を殺して見入ってい
た。地震から92時間。奇跡的に2歳の皆川優太ちゃんが救い出された。瓦礫の間を列になり優太
ちゃんをリレーする隊員の姿に熱いものがこみあげた。感涙。その後も、隊員は岩と土砂に垂直
状態で埋まる乗用車に立ち向かって行った。車内に閉じ込められた母親と3歳の真優ちゃんを救
い出さんと。
 何たる勇者たちだ。何たる優しい男たちだ。仕事とはいえ、余震が続くなかでの危険極まりな
い作業。その献身ぶりに頭を下げ、「足場よ崩れるな。無事であってくれ……」ぼくは祈る気持ち
でテレビを見つめた。日本中の人々が感動したことだろう。男たちの勇気、一心尽、美しい心を
感じて。
 クジマだ。勇者クジマだと、ぼくは思った。クジマはロシアの絵本『火事』に出てくる消防士の名
前である。留守番の女の子リエナが母親の言い付けを守らずペチカの蓋を開けてしまう。火が
燃え移り火事になる。消防隊が到着、消防士クジマが燃え盛る火の中に果敢に飛び込んで行く。
クジマは今にも焼け落ちんばかりの屋根に立ち大奮闘。リエナが泣いていると、クジマが子猫の
襟首をつかんでやって来る。そして優しく言う。「泣くんじゃないよ。お家は新しく建ててやる。
子猫も無事だよ。ほらごらん!」クジマはやけどを負い、額には血、目にはアザ……。でも平気の
平左。誇らしげに引き上げて行く。
 この絵本は5見開きだけの簡素なもので1932年に出版された。以後、ロシアはスターリンによる
大粛清、芸術表現にとっても暗黒の時代になる。それでも『火事』は出版され続けた。資材不足
の戦時下では判型を変えながら。1941年には葉書大、1945年には何と名刺大の粗末なものに
なってしまったが。印刷発行もレーニングラードやモスクワから地方都市に移っている。
そこには、子供達に何としても絵本を与えたい。クジマの誇り高い姿を見てもらいたいという
出版人の熱い思いが感じられる。
 日本では大阪朝日新聞社の「アサヒ・コドモの会」の機関紙『コドモの本』1932年4月号から
1935年7月号に掲載された「サウエートの絵本」のなかに、この『火事』も4回にわけて紹介されて
いる。子どもに伝えたい“大切なこと、勇気、美しい心”に昔も今も変わりはない。
 『火事』は「幻のロシア絵本1920〜30年代」展(東京都庭園美術館他)に合わせて淡交社より
復刻出版されたが、他の絵本と10冊のセットになり、分売されないのが残念である。
 危険を顧みないハイパーレスキュ-隊のニュースの中に、自分の仕事にあくまで忠実な捜査犬
の映像があった。隊員は傷だらけの愛犬を抱きしめ労っていた。男の何とも優しい眼差しに、
また涙がでた。格好いいなぁ、勇者たち。



■栃の木 August,2003










右:「五百城文哉の植物画展」パンフより
   小杉放庵記念日光美術館
   日光市山内2388−3

   (東武日光駅、JR日光駅からバス
    神橋停留場徒歩3分)





■栃の木


 でかけたい所が2ヶ所あって迷った。栃の実を拾いに千代田区霞ヶ関に行こうか、はたまた
小杉芳庵美術館の「五百城文哉(いおき ぶんさい)展」を見に日光に行こうか。
 霞ヶ関一帯の桜田通りには栃の並木があって、東京国土事務所は毎年秋が来る前に72本
ある栃の木を叩き実を落下させる。栃の実は堅くて歩行者に危険を及ぼす危険性があるため、
叩いて実を落としてしまうのだ。それを希望者に分けてくれるというもの。
その日が今日、8月30日だった。五百城文哉展は明日が最終日だが、仕事の予定があって
明日は行かれない。仕方ない。栃の実拾いは来年の楽しみにしょう。僕は東武日光線に飛び
乗った。
 小杉放庵美術館は日光駅からバスで4つ目の神橋停留場で降り、大谷川を渡った坂の上り口
にあった。放庵は明治・大正・昭和にかけて活躍した日光出身の画家(東大安田講堂の絵「泉」
はよく知られている)この放庵の師匠だったのが五百城文哉。20世紀初頭には海外にも名を
馳せたたという水彩画家ある。今年生誕140年を迎える。これを記念して「晃嶺の百花譜植物
画展」が開催されたのだ。ロックガーデンのように植栽された斜面を登って入る放庵美術館は
五百城文哉の高山植物画の展示場所に相応しかった。
 明治34〜38年頃の高山植物画94点。絵は週刊誌位と小さいが、何れも描写密度が濃い。
水彩画で濃いというのも変だが、実に深い。植物を細部まで正確に描いたボタニカルアートは、
ナポレオンの妃ジョセフィーヌのお抱え画家ルドゥーテのユリ科植物図譜など多数あるが、文哉
はどのような所に生えていたかまでを詳しく描き込んでおり異色。それも説明的ではなく、あくま
で植物の背景として表現している。土や岩や山や空、たちこめる霧まで描かれ正に清澄で美し
い風景画のようだ。ユキワリコザクラ、イワウチワ、ハクサンサイコ、コケリンドウ……、卓絶した
描写からは高山の冷気まで感じる。文哉は晩年を日光の山の中で暮らし植生を描き尽くした。
その執念に気圧されたのか、ぼくの脳裏に岩場に這いつばり顔を近づけてスケッチする文哉の
姿が目に浮かんだ。幸せな忘我の画家の姿だった。
 美術館を出ると雨が降っていた。それでも折角ここまで来たからと、“東京大学大学院理学系
研究家付属植物園日光分室”という長たらしい名前の植物園に向かった。国道は渋滞しバスは
来ない。30分歩いてずぶ濡れになった。揚げ句には雨が激しくなり植物園には入れず仕舞い。
入り口のベンチで雨宿り。植物園に植えられている花や草木の写真を見ていたが、一向に雨の
止む気配もなく諦めて帰ることにした。
 来た時と反対側の道路を歩いて行くと、土産物屋のお婆さんが店を閉めるところだった。
軒先で『栃餅あります』と書かれたボール紙が揺れている。「栃の実の粉の饅頭ですか?くださ
い」と言うと、売り切れ。「残念だったね。うちのは自家製でね1個150円。安いでしょ。鬼怒川
温泉に卸しているけど250円で売ってるんよ」「栃の実は今市の契約農家からから仕入れてい
るの。堅くて粉にするの大変なんよ」見るからに人のよさそうなお婆さんはよく喋った。
 靴下までぐしょ濡れ。早く電車に乗ろう。冷えた体を酒で暖めようと、ぼくは駅まで急いだ。
途中。ふと足を止めた。家の玄関先に置かれた植木鉢の2メートルほどの若木に目をとられて。
雨に打たれて光る掌状複葉の木の根元をのぞけば『県の木 栃の木』の名札。
そうか、ここは栃木県だったのか……。この木に出会えただけで何だか嬉しくて足取りも軽くなっ
た。
 来年はきっと桜田通りに栃の実を拾いに行こう。栃の実を蒔いて育てよう。石臼で挽こう。栃
餅を作ろう。栃煎餅も焼こう。コップ酒片手に取り留めない計画……。ホロ酔い気分で帰路に
ついた。